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カンボジアのポル・ポトさんについて

70年代のカンボジアで大虐殺が起きた。その中心に居たのはポル・ポト。
クメール・ルージュを組織し、そのほとんどはポル・ポトに責任を押し付けた。
しかし中には今でもポル・ポトを信奉している人もいる。ある種、シンボルになっている。
ポル・ポトは革命そのものを意味している。


 

ポル・ポトの生い立ちは1925年。
カンボジアはベトナムを含むフランス領インドシナでの傀儡だった。
ベトナム人は勤勉だとされ重用される一方カンボジア人は虐げられていた。
ポル・ポト一族はカンボジア王室とつながりがあり、ポル・ポトのいとこは王の側室であった。6歳のとき親元を離れエリート教育を受けた。
当時カンボジアには民族主義が高まっていた。少年時代のポル・ポトは大きく影響を受けた。
フランス人、ベトナム人とともに、学ぶ。
そしてパリに奨学金で留学してから彼の人生が変わった。

みな当時のポル・ポトを 優しくてユーモアのある人物として見知っていた。
カンボジアでは共産主義とともに、反応性主義に沸き返っていった。
ポル・ポトはこの革命の波に乗ることになっていった。政治集会では聞き役で目立つことはなかった。
1953年にポル・ポトはカンボジアに帰った。その頃フランスから独立するためのインドシナ戦争が起こっていた。
ベトナムと協力することで革命が成功することだろうとポル・ポトは考えた。
1954年、フランスはインドシナから撤退。インドシナは共産国家として独立。
53年カンボジアも独立。シアヌーク国王は共産主義を嫌った。シアヌークは国王を譲り、政党を作り一党支配することとなる。ポル・ポトは12年間シアヌークから逃れ、地下に潜ることになる。そして共産主義を兵士に広げていった。
1962年から始まったベトナム戦争。アジア圏の共産主義の広がりを恐れたアメリカは南ベトナムを支援した。北ベトナムとシアヌークは秘密協定を結び、カンボジアまで進行しないことを取り決めた。
しかしこの協定はカンボジア内にベトナム人を招き入れる事となり、反ベトナム感情の強いカンボジアでシアヌークの人気は急落することとなる。
北ベトナムを支援する共産主義の中国は、ポル・ポトを利用する事を考えた。
1970年ロン・ノルによるクーデター。シアヌークを元首の座から下ろす。
ロン・ノルはアメリカから巨額の支援を得ることになるが、彼の能力ではカンボジア領土を収めることが出来ず、ゲリラ活度が活発になる。
追放されたシアヌークは、かつての敵、クメール・ルージュと手を結ぶという意外な行動に出る。そして勢力は一気に拡大することとなる。しかし1976年にシアヌークは政権から追い出されることとなる。
1970年アメリカ軍と南ベトナム軍が北ベトナム軍補給基地を叩くために、カンボジアに進行。この作戦でカンボジア軍に大きな被害がでて反米感情が高まる。更には共産主義勢力を叩くため大規模な爆撃を行うこととなる。敵対勢力ではない国家に。
このことで反政府軍を駆り立てることとなる。

1973年パリ和平協定でベトナム戦争終了。それに伴い、北ベトナム軍もカンボジアから撤退。ロン・ノル政権はアメリカの後ろ盾を失い弱まっていった。
カンボジアから追放され、
1975年クメール・ルージュはプノンペンに侵攻。ロン・ノルはアメリカに逃亡。クメール・ルージュはプノンペンを開放した。
クメール・ルージュは革命運動に参加せず、資本主義に与したプノンペン市民の知識階級を処刑し始めてきた。そして一般市民を移住させ肉体労働により、社会改革をしようと考えた。そして最初の数日で一万人も死んだという。
クメール・ルージュ政府は農業を基礎においた原始共産制を敷いた。親兄弟をなくし、アンカーと呼ばれる指導組織のみの共同体となった。
純粋な肉体労働だけで、国を変えようとしようとした。
米を中国に輸出し、代わりに武器を手に入れていた。カンボジアの民衆は飢餓状態に陥った。
ノルマと罰を与え、桑とカゴでダムを作った。多くの人が過労や病気、飢えで次々と死んでいった。アンカーは党批判をするものを探し、特に子供は純粋なのでポル・ポトを信奉した。
ポル・ポトも周囲の幹部の人間に対し病的な猜疑心を持ち始め、次々と処刑し始めた。
ツールスレンは最も虐殺された刑務所。

1977年クメール・ルージュは無謀にもベトナムに侵攻。
ベトナムはカンボジアに侵攻。社会が疲弊しきっており、反撃する力はほぼなかった。大敗したクメール・ルージュ側はタイに撤退。

カンボジアにはヘン・サムリンのベトナム傀儡政権が出来る。
ポル・ポトはタイ国境で陣地を構えた。中国、タイ、アメリカですら国連でポル・ポトの主張を支援。長期間のゲリラ戦を継続。
1989年ソ連から援助を受けられなくなったベトナムはカンボジアから撤退。選挙で新しい政府の樹立。
1996年クメール・ルージュの大量投降。
1997年ポル・ポトは参謀タ・モクの命により身柄を拘束され終身刑を言い渡される。
1998年4月政府はクメール・ルージュに攻撃。タ・モクはジャングルににげこむが 数日後、ポル・ポトは心臓発作で死亡。

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