ドリアン助川、或いは明川哲也。というか叫ぶ詩人の会。

Poems

もう、だいぶ昔。昔。 ドリアン助川という人がいました。バンドマンでしたが、あまり曲が売れることはなく、バラエティ番組などの芸能活動での知名度のほうが高かったような気がします。 バンドを立ちあげた初期の頃は、ものすごいモヒカンで、叫ぶ詩人の会というバンドを作り、ロックンロールに合わせて、ポエトリーディングをする、少し前衛的な事をしていました。

もともと彼は演劇をやりたかったそうです。 高校時代、学校でデモ行進をしたり、ヤクザと喧嘩して酷い目にあったりするような不良少年でした。 それが、友人に連れられていった舞台を見て、一瞬にして心奪われたそうです。 舞台の熱気、ライブ感、緊張感、セット、証明、生きた芸術、すべてに。 護身用の竹刀を捨て、彼は猛勉強を始めました。 目標は、演劇の歴史のある早稲田大学。早稲田は昔から演劇文化が盛んでした。劇団を作る為入学し、作ったら、そのまま退学してしまう人もいる程の学校です。

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早稲田大学(哲学科)に一浪して入学し、座長として劇団を旗揚げしました。

彼は若いときより一人暮らしをしており、その寂しさを埋める為に沢山の書物を読んでいたものですから、物語を作ることに関しては、ものすごい知識もありましたし、また才能もありました。 彼を中心として講演を行う度に、規模も動員数もぐんぐんと大きくなって行きます。

雑誌にも取り上げられ、そのたびに「もっといいものを」「もっと完成度の高いものを」と思う様になりました。 その思いが、情熱が、悪い方向へ働き始めたのです。 一切の妥協を許さない鬼座長となり、劇団員に罵声を飛ばし、物に当たり散らす独裁者になりました。

劇団員は萎縮し、恐怖し、恨み、皆彼の元を去っていきました。 助川は夢も、人間関係も失い、仲間の輝かしい大学生生活をも奪ってしまったと絶望し、酒に逃げました。 アル中状態です。 なんとか塾講師の仕事にありつけましたが、酒で心の傷を忘れる日々。 とうとう入院することとなり、塾講師の仕事も失います。 しかしゴールデン街なんかでのみ歩いていた時に知り合った仲間から声をかけられ、構成作家の仕事を始めることとなります。

不眠不休で働く日々でした。 お金も入ってきましたが、キャッチバーにわざわざ捕まりに行き、一瞬で使う様ないい加減な生活。

そんな生活ですが、休みを見つけては世界の僻地を旅行して歩く事をしていました。 そこでアウシュビッツ収容所へ送られる直前の子供たちの描いた絵を目にする。 「あなたはなにができるの」「あなたはなにがしたいの」という声を聞く。 そこで自分は「感じることが出来る!」と悟る。

感じたことを詩に乗せて伝えることが出来る! そうしてドリアン助川28歳にしてバンド結成。

パンクファッションで社会問題を叫ぶスタイルでした。 今までになさすぎるバンドのため、受け入れられず、全然売れない。ただ、エッジすぎるバンドとしてメディアに露出することはあったようです。

1995年ドリアン助川は「正義のラジオジャンベルジャン」をいう番組を任されることになりました。

若者の人生相談番組でした。 妊娠してしまった中学生。ドラッグに手を染めてしまった大学生。白血病の少女。 深刻で、だあれにも相談できない学生たちが、毎週ドリアン助川を頼って、電話をかけてきました。 どんな重い悩み問でも、じっくりと聴き感情的にならず、冷静なアドバイスをするドリアンは、次第に若者たちの駆け込み寺として、社会現象になっていきました。

受賞歴も多数。 1996年: 第22回放送文化基金賞ラジオ番組部門本賞。 1997年: 第34回ギャラクシー賞ラジオ部門選奨。 1998年: 第45回日本民間放送連盟賞ラジオ生ワイド部門優秀賞。 でもバンドは売れない。 さらにシャウト!金髪先生という、英語圏のアーティストの詩を、学校の授業の様なスタイルで、ドリアン助川が翻訳し紹介していく番組をはじめ、これが深夜番組ながら、かなりの視聴率をあげたようです。

でも、バンドは売れない。 あまりにもバンドが売れないしレコード会社も倒産するし、契約も切れるし、まぁ、一つ確かなことはバンドは売れないことです。 「ベルリン初プラハ」というニューアルバムを作り、全国ツアーを行おうと準備を進めていた真っ最中、1997年バンドメンバーが大麻不法所持の為逮捕。 ニューアルバムのためのツアー、番組出演、CMすべてキャンセル。それにより損害金が発生。 責任をとってバンド解散。

本当に、本当に、バンドは売れないまま、終わっていきました。 バンド解散後、ドリアン助川は単身ニューヨークに語学留学に行きます。 これはバンドの解散のこともあったでしょうが、ドリアン助川=悩み相談という世間の目から逃げ出したかったからだそうです。

自分の悩みすら対応できないのに、悩みは次から次へと洪水の様に襲いかかり、終わることはなく、ノイローゼになり、ドリアン助川という芸名を捨て、明川哲也として、ニューヨークに向かったのでした。

叫ぶ詩人の会の好きな曲。

叫ぶ詩人の会、最初期のポエトリーディングよりも、ターニングポイントとなった恋唄以降の曲が好きです。 くじら、ふるさと、恋唄。 なかでもくじらが一番好きかな。 ‪
現在は日本に帰国し、作家として多数本を出しています。全ては呼んでいませんが、全力で宮沢賢治になってやる!という暑い意気込みを垣間見ることが出来る、本当に素晴らしい文章です。(宮沢賢治は勝手の思い込みですけど;) 作家活動と並行して、アルルカン洋菓子店というユニットで、コンサートを行っています。 アルルカンでも、叫ぶ詩人の会の歌を歌っていました!やっぱりいいな。くじら。いろいろ当時を思い出します。 ‪アルルカン洋菓子店 ~ くじら ~

人生相談ノイローゼも克服されたようで、もうこれは自分の使命だと思い、相談に乗りまくっています。 もう、完成、熟練した話術で、悩み事をひねって歩くような具合です。 仕事で悩んでいるときはよくよんでいます。悩みに答える方法論が出来上がっちゃってるなぁ。

明川哲也の俺が聞いちゃる 叫ぶ詩人の会、少しでも興味持たれた方は、解散後しばーーーーらく経って発売されたベスト盤を購入すれば間違いないです。